暮れの風物詩
年末によく耳にする音楽といえば、「第九」です。
テレビ番組やCM、お店のBGMなどでよく流れていますね。
大みそか近くになると、全国のいろいろなオーケストラが第九をメインにしたコンサートを開催します。
第九のコンサートのポスターを目にしたり、告知のCMを見たりすると「いよいよ今年も終わりかぁ」「もうすぐお正月だなぁ」という気持ちになります。
さて、「第九」は知らない人がいないくらいの有名な曲ですが、どうして年末に演奏される機会が多いのでしょうか?
今回はその理由についてお話ししていきたいと思います!
第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話 (幻冬舎新書) [ 中川右介 ]
そもそも「第九」とは?
その前に。
「第九」について、ちょっとおさらいをしておきましょう。
※ご存じの方は、このくだりは読み飛ばしてくださって結構です。
「第九」の正式名称は、「交響曲第9番 ニ短調 作品125」といいます。
作曲者は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
「楽聖」と讃えられる、あまりにも有名な大作曲家ですね。
ベートーヴェンの作曲した「9番目の交響曲」だから「第九」なわけです。
1824年に完成、同年に初演されました。
ベートーヴェンが手掛けた最後の交響曲としても知られています。
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
とりわけ有名なのが、このフレーズ。
「歓喜の歌」という名前で知られており、合唱によって歌い上げられる力強いフレーズは、その名のとおり強い歓喜のエネルギーに満ちています。
第九というとこのメロディしか知らないという方の方が、恐らく多いでしょう。
私も大学でオーケストラに入るまで、第九をフルで聴いたことがありませんでした。
第九は4つの楽章(交響曲を構成する一つ一つの楽曲)からなっているのですが、この「歓喜の歌」、実は第4楽章の後半にならないと出てきません。
これを知らない人が第九のCDを買って最初から再生すると、知らない曲を何十分も延々と聞かされるわけです(笑)
しかし、その分この「歓喜の歌」が出てきたときの感動はひとしお。
ベートーヴェンの描いた壮大な曲想に、ただただ脱帽するばかりです。
ちなみに、第九のように交響曲に合唱や独唱が含まれるのは極めて珍しく、ベートーヴェンの革新性を象徴する楽曲ともいえるかもしれません。
ルーツはドイツにあり!?
第九はベートーヴェンの作品としてはもちろん、クラシック音楽全体の中でもトップクラスの評価と名声を獲得してきた楽曲であり、初演から200年近く経つ現在までさまざまな国で演奏されてきました。
その中で、大みそかに演奏された例を一つご紹介します。
1918年12月31日、ドイツのライプツィヒにおいて、同地に本拠を置くゲヴァントハウス管弦楽団が、アルトゥール・ニキシュの指揮で第九を演奏しました。
主催したのは、労働者教養協会。
この年、第一次世界大戦がドイツの敗北により終結を迎えており、「平和と自由の祝祭」と銘打たれたこの演奏会は、平和を願うメッセージ性の強いものだったことが伺えます。
この演奏会は、23時という異例の深夜に開演。
つまり、日付が変わって新年を迎えた頃に「歓喜の歌」が歌い上げられるようにと逆算されたものだったのです。
このように年をまたぐイベントというのは現代でもよく行われており、当時としては先進的な演出だったのではないでしょうか。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者でもあったニキシュは、この年以後、亡くなる1922年まで4年連続で大みそかに第九を指揮しており、その後もこの伝統はしばらく続いたようです。
日本の「暮れの第九」の始まり
そして、いよいよ日本における「年末の第九」のお話です。
1938年12月25日・26日の両日、ジョゼフ・ローゼンストックの指揮する新交響楽団(現在のNHK交響楽団)により、歌舞伎座にて第九が演奏されました。
さらに1940年12月31日夜10時30分から、同じくローゼンストック指揮・新交響楽団による第九の演奏が、ラジオで放送されています。
現在でいうと「紅白歌合戦」を見ながら年の瀬を過ごす感覚と似ているかもしれませんね。
このローゼンストックという指揮者はポーランド出身で、かつてはドイツのベルリンで指揮活動をおこなっており、「大みそかに第九を演奏した思い出」を新交響楽団のメンバーに語っていたとのこと。
つまり、先述したライプツィヒでの大みそかの第九演奏は、ベルリンでも行われるようになっていたのです。
それがローゼンストックによって日本に伝えられたということで、この流れが日本における「暮れの第九」のルーツの一つになっているようです。
つまり、ここまでの流れをまとめると、
1918年 第一次世界大戦敗戦後のドイツ・ライプツィヒで、大みそかに第九が演奏される
↓
その後、ベルリンでも大みそかに第九が演奏されるようになる
↓
1938年 ベルリンで活動していたローゼンストックの指揮により、日本の歌舞伎座で年末に第九が演奏される
↓
1940年 同じくローゼンストック指揮・新交響楽団による第九の演奏が、大みそかにラジオで放送される
1941年には太平洋戦争が勃発したため、この年以降は「大みそかに第九」どころではなくなってしまいます。
しかしそれでも、正月に放送するなどして年末年始の第九の放送は定例化していきました。
ちなみに「戦時中なのに、外国の曲を放送しても大丈夫だったの!?」と思う方がいるかもしれません。
確かに、当時の敵国であるアメリカやイギリスなどの音楽は厳禁だったのですが、「第九」は日本の同盟国のドイツの音楽だったので、禁止はされなかったのですね。
諸説あります
クラシック音楽の演奏の歴史は、それだけで一つの学問として成立するくらい複雑です。
そのため「なぜ暮れに第九を演奏するようになったのか」というテーマについても、いろいろな説や解釈があります。
そこで、今回ご紹介した説以外の説についても、簡単に触れておきましょう。
①楽団員の年越し費用稼ぎ
ゲストが五歳児に罵倒されて悦ぶことでお馴染みの、NHKの某番組で取り上げられたので、ご存じの方も多いかもしれません。
昔はオーケストラの楽団員が貧乏だったので、正月の餅代を稼ぐためにチケットの売れ行きが見込める第九を暮れの演奏会の曲目にした、という説です。
この曲には合唱パートに多くの人が参加するため、その家族などのチケット代もあてにしていた、という何とも生々しい話。
某番組のほか多くの書籍やウェブサイトで言及されていますね。
②戦没者の追悼のためだった
1947年12月30日、山田一雄の指揮により日比谷公会堂で第九の演奏会が開かれました。
この演奏は、学徒出陣して戦死した方々を追悼するためのものだったそうです。
現在の感覚だと、第九のイメージは追悼や鎮魂に合わないと思いがちですが、この曲はそうした性格も持っているのです。
この時の演奏も、「暮れの第九」が定着するきっかけの一つなのかもしれませんね。
日本だけって本当なの?
最後に、「年末に第九を演奏するのは日本だけ」といわれていることについて。
ウェブ検索すると、「日本だけの特異な風習」と断言しているサイトが非常に多いことが分かります。
ただ、どのサイトでも、実際にそうであることを客観的に確認できる情報は見当たりません。
そこで、「第九」の演奏会の情報を英語で検索してみると……
なんと、出るわ出るわ。
ヨーロッパ各国で12月末に開催される「第九」演奏会のチケット情報が、じゃんじゃん出てきます。
その中には、上でご紹介したライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサート情報もありました。
1918年以来の伝統を、未だに守っているのでしょうか。
だとすれば……、ちょっと感激です。
まぁ、たまたま年末のコンサートのプログラムに第九を入れたというだけで、「ヨーロッパの人々が『暮れの第九』を特別視しているわけではない」と言われれば、それまでなのかもしれません。
ただ事実として、年の瀬のヨーロッパで、名門も含む少なくない数のオーケストラが第九の演奏会を行っているわけですから、「日本だけの特異な習慣」とはいえないんじゃないでしょうか。
それとも、ここ数年で日本のユニークな風習がヨーロッパにも広まった?
そうだとしたら「年末に第九やるなんて、日本だけだよ?」なんて言ったら、逆に笑われてしまう日が来るかもしれませんね。
それはそれとして。
2024年は第九の完成・初演からちょうど200年目にあたります。
この機会に、たまには第九を聴きながらゆっくり過ごすのも良いのではないでしょうか。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
このブログでは他にも、指揮者などのオーケストラ関連の話題についてご紹介していますので、よろしければ読んでみてくださいね!
■参考資料
中村右介「第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話」(2011年 幻冬舎)
第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話 (幻冬舎新書) [ 中川右介 ]
ベートーヴェンによる「創造」から、人々に名曲として受け入れられ、歴史上のさまざまな場面で「第九」が演奏されていく過程を、筆者が「神話」を解読するようにしてひも解いていきます。
今回ご紹介した「暮れの第九」の始まりのほか、日本で初めての第九演奏など、さまざまなエピソードが盛りだくさん。
「第九についてもっと知りたい!」という方にオススメです!